ベロニカは死ぬことにした/パウロ・コエーリョ/角川書店2005/09/02

翻訳物ですが、古書店で見つけたので、以前から気になっていた本を買ってみました。うーん、やっぱり文章が滑るような感じで、全く頭に入ってきません。私の読解力がないのは当然ですが、今回の場合は、訳者の文章がちょっとヒドいのではないかと。長くなりますが引用します。  ”経済的な理由から、例えばインシュリン・ショックのような、長年、医学界で禁止されてきた治療法を受け入れざるを得なかったにも拘わらず、同じ経済的な理由が、新しい精神治療へのヴィレットの誘因の裏にあった。ヴィトリオルの研究を続けるための時間も人材も揃ってるだけでなく、自分たちをクラブと呼ぶ一団を病院に置いておくためのオーナーたちの許可も得ていた”   どうですか? 私は何回もこの部分を読み返したのですが、正直なところ、何を言っているのかさっぱり理解できません。一部の引用なので適当ではないのですが、終始この調子なので、結局、何の物語だったのか・・・。私が死にたいくらいです。

ぼくはタイガースだ/五味太郎/集英社2005/09/04

2003年タイガース優勝時の便乗本の一つと思っていましたが、これほどタイガースへの愛が溢れたものとは考えていませんでした(笑)。本人は自身の名前にあやかり53番の背番号を付けたタイガースのユニフォームを持っています。そのユニフォームを着て草野球をやり、下手だけど楽しい、なにがあろうと野球は楽しい、この感覚が「もうタイガースなんだよ」と言い切ります。まさに同感。また次の言葉も嬉しいわけです。曰く「井川が夏バテしなかった、片岡が評判通り働いた、金本がフンバッた、星野の采配が的確だった、ゆえに勝った、なんてこと、まったくないのさ。そういう理屈は、井川は夏バテしなかった、片岡は評判通り働いた、金本もフンバッた、星野の采配はそれなりに的確だった、のに負けた、ということにだってなり得るのだから、意味ないのさ。2003年、タイガースは勝ったのさ。何の根拠もなく勝ったのさ。それがめでたいのさ」 嬉しいよねぇ。そうそう、最後の赤星の写真もグッと来ました。イイよねぇ。

低反発クッション2005/09/06

忌野清志郎の160万円相当もする自転車が盗まれたそうです(オレンジ号・画像参照)。カッコいいなあ、オレの自転車が27台も買えるぜ。出先でごついチェーンをグルグル巻きにしていたのに、そのチェーンを切って盗んでいったとか。私も盗難には気を付けているけど、ここまでやられたら決め手がありません。せいぜい、行った先で駐輪する必要がある場合は自転車を使わないことくらいでしょうか。盗まれたときの無念さは、値段に関係ないし。 さて、話は変わりますが、腰痛対策のために、車を運転する際のクッションを買ってみました。低反発素材を使ったものです。これをシートと腰の間に入れるのですよ。しばらく運転してみると、腰が伸びるし、足が痺れることもありません。しかし、クッションの山が大きいので、シートをいつも以上に倒す必要があり、今度は首が疲れてしまいました。腰の負担が軽くなっても、頭痛を誘発してしまうのでは意味がありませんなあ(笑)。結局このクッションは、寝るときに膝下に入れて使うことにしました。腰痛対策はまだまだ続く。

迎え火の山/熊谷達也/講談社2005/09/07

うーん・・・・困った。私は基本的に「悪霊」「結界」「憑依」なんて言葉が出てくるような小説は「フン」と鼻で笑ってしまうのですよ。しかし、著者名でこの本を選び、ページを繰り始めると、これに類する言葉が集中砲火を仕掛けてきました。ほとんどウンザリしながらも、著者を信じ最後まで読み通しましたが、やっぱり苦痛だったなあ。強いて収穫と言えば、「この著者は、こんなモノも書けるのだ」と認識したことぐらいかな。 そうそう、終章に出てくる「今なお君臨し続けているシャーマンの一族」って、江戸城趾に住んでいる一族のことかな(笑)。

バケツ/北島行徳/文藝春秋2005/09/09

世間にはびこる(敢えて)障害者に対する感想はどのようなものでしょうか。曰く、かわいそうだ、健気に生きている、純粋な心を持っている・・・。前作「無敵のハンディキャップ」において、そんな世間の思いこみに飛び膝蹴りをかました著者は、健常者も障害者も在籍するプロレス団体「ドッグレッグス」を主宰しています。プロレスなど興味が無く、鼻で笑ってしまう私でしたが、前作を読んで、下北沢まで「ドッグレッグス」を見に行き、すっかりファンになってしまいました。いやー、衝撃でしたよ。健常者レスラーでもある著者vs四肢不自由者のガチンコ勝負や、寝たきり小児マヒ同士の30分一本勝負なんてのが組まれていました。ちなみに後者の勝負は、両者とも「うー」とか「あー」と言ってマットに寝ころんでいるだけで、いつも引き分けでした。そんな著者が書いた「小説」です。 腸も気も弱いマッチョの主人公が、就職した施設で智恵遅れで盗癖のある「バケツ」とあだ名された少年と出会います。家族からも施設からも見放された「バケツ」と同居を始めたマッチョは、生活費を稼ぐために日焼けサロン、無認可保育園、老人向け介護サービスを始めます。この仕事がキツイキツイ。しかし、支えなければと思っていた「バケツ」に自分が支えられていたことに気付いたマッチョは、ますます仕事に熱を上げていきます。いやー、良いですよ、これは。教科書的な「共生」とか「思いやり」なんてのは、じつは健常者の思い上がりであって、他者との関係を築く上では、障害があるとか健常ってのは全くの無意味ってことに気付かされます。ホントの「やさしさ」って、こういうことを言うのだと思いますよ。「無敵のハンディキャップ」と併せて、強くオススメします。

「あの葡萄の実は酸っぱいに違いない」2005/09/10

自転車日記などにアップしている画像を撮影するために使っている機材は、古い(と言っても購入したのは3年前ですが)デジカメと新しい携帯の2台です。私は元来写真が好きで、写真展に行ったり写真集を買ったりしています。メイプルソープと橋口譲二が好きだと言ったら、たいていの人が複雑な顔をしますけどね(笑)。あ、ついでに。カメラマンの宮島某が「写真にウソは写らんど!」と言っていますが、だからと言って「必ず真実が写る」とは限りませんので、ご注意を。閑話休題。 本当は写真も趣味だと言いたいのです。でも、のめり込むのは目に見えているし、もしそうなってしまったら、時間もお金も全く足りません。ここは、耐え難きを耐え忍び難きを忍んで、デジカメで精進しています。そう言えば、写真に限らず途中で投げ出してしまったことが多すぎるなあ。芝居は2本を舞台に掛けて空中分解だし、バンドはオーディションに一回落ちて解散。ボクシングは指を折って終了。バスケットは1年、バイクは2年ほどで、急に飽きたし。オレの人生、中途半端やのぉ。読み返したら、自転車のこと書いてないぞ。中途半端やのぉ。

ぼんやりした不満2005/09/13

自転車は、いつもカバーを掛けて裏庭に置いています。防犯上の意味もありますが、そこしか場所がないというのが最大の理由です。先日台風による強風に煽られ、自転車カバーが破れてしまいました。すぐに新しいモノに替えれば良かったのですが、面倒なので洗濯バサミで破れた箇所を応急処置しただけでした。これが失敗。サイクルメーター(画像参照)の基台部分に雨が滲入し、計測が出来なくなってしまいました。今まで走行距離や巡航速度を見ながら走っていたので、それが分からないとなると、走行に影響はないのになんだか不満です(笑)。あ、あとボロボロのカバーを買い換えなきゃ・・・。

エンブリオ/帚木蓬生/集英社2005/09/16

不妊治療に関し「神の手」を持つと言われる医師。不妊治療に疲れたカップルには福音をもたらす彼でしたが、その贅沢で高度な施設を持つ医院には、もう一つの側面がありました。男性の妊娠、人工子宮、そして中絶した胎児から取り出した臓器の培養。野心に燃える彼は、邪魔者をためらうことなく排除し、海外企業からの触手を巧みにかわしながら名声を高めていきます。彼は正常なのか狂気なのか。また悪魔か天使なのか。この著者には珍しく、全く救いの物語になっていません。逆に、この医師の「神への挑戦」は、まだまだ続くような終わり方になっています。エンブリオとは受精後八週間までの胚のことです。日本では、この段階では「ヒト」とされていません。この矛盾を突き、自らの研究を強く進めていくこの医師を、実は誰が非難できるのか? 重いストーリーですが、強く勧めます。

「菊花の契り」2005/09/18

 いつも走っているサイクリングロードは海沿いなものですから、夏ともなると水着の男女で一杯になります。走りながら「でへへ」とビキニのおねーちゃんを見ていたのですが、先日、ある場所だけはおねーちゃんが全くいないことに気付きました。逆に「どーだぁ!」って感じのビキニパンツのにーちゃん(中にはオッサンも)だらけです。しかも2、3人で海岸に椅子やらマットを敷いて仲良く日光浴なんぞをしています。聞いてみるとカミさんも気付いていたとか。こりゃ、ひょっとして・・・と思い、ネットで検索してみると、その「ある場所」とは、千葉県内でも有名なハッテン場でした。今度、夜に行ってみるかな。 

 話は変わって。新しいサイクルメーターを買いました。作業する前に、念のために動かなくなってしまった古いメーターを取り付けてみたところ、あっさり計測し始めました。なんじゃ、そりゃ。その後も無事に動いているので、新しいヤツは机の引き出しに行くことに。まったくねぇ・・・。

わが師 折口信夫/加藤守雄/朝日文庫2005/09/22

国学、民俗学、神道学・・・現在批判もあるものの、折口信夫の業績はまだまだ刮目すべきものです。そんな巨人の私生活を、極めて近くから見ていた、そして「被害」にあった書生の一人である著者が記した作品です。折口が同性愛者、かつ女性を不浄な生物と考えていたことは有名です。が、それは「知識」として私が知っているだけであって、関係を迫られた弟子の一人である著者の描写非常に生々しい。弟子は、頭脳、嗜好、そして肉体までも、師と同化せねばならんとの折口の考えには、嫌悪感さえ覚えます。折口は、私が出た大学の大先輩でもあり、折口の臨終を見届けた書生の一人(今年も歌会始の召人でしたな)は、私の演習と卒論を見ていただいた教授の師匠に当たる人なので、ごく薄い縁があるのですが、それでも「身近にいなくて良かった」と感じてしまいます(笑)。でも未だに受け継がれている「古代とは時間を言うのではない」との言葉は、今でも私の頭の中にあります。

余談ですが、折口の師匠である柳田国男は、折口の学問へのアプローチ方法を、半ば蔑んでいた面があったようです。柳田は証拠の集積を本筋とし、折口は自らの直感を信じていました(かなり乱暴な言い方です)。両者はお互いの業績を認めながらも、心中は反発していたと聞きます。そんな雰囲気を著者が感じないワケはなかったと思うのですが、そこは文字通りの「遠慮」であったのでしょう。